ワーママに育てられたからこそ、乗り越えたくない「小一の壁」

子育て

私、ワーママは、一番上の子どもが小学生に上がる頃には、午後なるべく家にいる生活をしたいと考えています。

それは、私自身が激務のワーママ共働き夫婦に育てられた経験を持つからです。

今回は、子ども目線でワーママについて考えたいです。

1980年代、ワーママはマイノリティーだった

今でこそ、共働き世帯の方が専業主婦世帯より多いですが、私が産まれた1980年代は専業主婦世帯がメジャーでした。

しかも、自分の母親はフルタイム常勤でした。

さらに、自分は母親が40歳のときに生まれたため、小学校入学時点では母親の仕事もかなり多忙を極めていました。

その後、退職まで仕事は加速度的に忙しくなっていきます。

ちなみに、父親も激務で、家事育児をしないのはもちろんです。

子どもの教育も厳しく言うときもあるけれど、基本的に関わらないという、ありがちなダメ親父でした。

というわけで、母親は激務のワンオペ育児に追われ、実家も頼れず、家事もままならない状態で、私はスクスク育ちました。

しかし、自分の家がマイノリティーだということも保育園までは特に気にすることもなかったです。

保育園時代、パートママも周りには多かったようで、お迎えは基本的に遅い方でした。

一番遅いお迎えになったことも何度もあります。

それが寂しかったということはないです。

唯一不安になった記憶があるのは、お迎えが遅く、保育園にも連絡してなかったようで、何度も先生が母に電話してもつながらずに、

「ママ、今日は遅いねえ」と、保育園の先生が困った様子でいたときです。

私は時間の感覚もあまりなかったので、「そっかあ」くらいでしたが、そのときの異様な雰囲気だけは覚えています。

共働きのみなさん、保育園への連絡だけは怠らないようにしましょう!

職場近くの保育園に通った保育園児にとって、小学校入学は壁なんてもんじゃない

小学校に上がると、クラスのみんなが初対面だと思っていました。

まさかのお友達グループがすでにできていて、びっくり!したのを覚えています。

だいたい、3つ4つくらいの幼稚園から来ているので、同じクラスの子たちもそれくらいに分かれていました。

自分は、たしか同じ学年に1人くらい同じ保育園の子がいたはず…

なんせ、保育園まで電車で通っていたので、そらマイノリティーです。

クラスでの友達作りはあきらめました。

でも、小1なんで、そんなにイヤな雰囲気とかでもなかったんです。

小一の壁のミカタ「学童保育」!合えばいいです、合えば。

学童保育は、保育園卒業した共働き世帯にとって、命綱ですよね。

自分だって、親の立場から見ればありがたく利用したいです。

ただ、自分自身は学童保育が全然合いませんでした。

兄も、姉も、ふつうに楽しく学童に通っていたので、それが当たり前だとおもっていたのですが。

小学校から一番遠い地域に住んでいたため、学童の同じ学年で帰り道が一緒になる女の子を紹介されました。

学童帰りに一緒に歩いて帰ることになりました。

ただし、その子がすっごくイヤな子だったのです。

色々あって、学校に行くのがイヤになりました。

どれくらいかわからないけど(2日のような、1ヶ月くらいのような)不登校みたいになりました。

そこで、家族も心配して事情を話すことになり、親は学校やその子の親とも話していました。

で、学童はやめることになり、学校が終われば一人で家で過ごすことになりました。

同じクラスで、学童には行っていない、もっと家が近い女の子の友達も紹介してもらって、よく遊ぶようになりました。

以上のように、私はまったく学童合わなかったです。

性格ももちろんあります。

親があてがってくれたお友達の性格がひどすぎた、というのも運が悪かったと思います。

でも、学童はともかく、こういう問題って、その日のことを親とちゃーんとゆっくり話す時間があれば、もう少し気付けたんじゃないかと思います。

当時、うちの親は早くて19時ごろに帰宅して、バタバタと夕食の準備をして、20時過ぎに夕食という感じでした。

10才年上の姉も中学時代に壮絶なイジメを受けており、母親はその対応にも追われていました。

姉は高校を少し遠めの進学校の私学にしたため、勉強は忙しいものの、それまでのようなつらい思いはせずにすんだようです。

でも母親が気にかけるのは、常に姉が一番!という空気がありました。

また、4つ上の兄は小学校をエンジョイしていたものの、中学受験を目指していました。

親もお受験ママのような努力はしてませんでしたが、それでもかなり気にはかけていました。

親自身の仕事の仕事も忙しかったし、年上の兄弟の方がはるかに大事な問題を抱えていた時期です。

20時くらいから、ワーワー騒ぎながら食事をする中で、自分が学校やともだちのことで少し悩んでいても話すスキはありませんでした。

「子どもは早く寝なさい!」と言われることも特になかったのですが、とはいえ、子どもらしいお話をたくさんできた訳でもないです。

もしメリットがあるとしたら、一人遊びが上手ということでしょうか。

友達と遊んで帰っても、親が帰るまでの2〜3時間は一人ですからね。

この2−3時間、家に母親がいて、宿題しながらでもなんでも、話ができたら、全然ちがっただろうというのが、私の思いです。

表面的な会話では親との信頼関係が築けなかった

10才くらいになると、大学生の姉も、中学生の兄も県外まで通学し、部活サークルも忙しくなったため、帰宅時間はかなり遅くなりました。

夕食作りを手伝い、母と二人で食べるということも多かったので、会話もあったと思います。

でも、自分の母親は、私のことも気にしつつ、話すメインは自分のことでした。

母親がいかに仕事が大変か、家事がいかに大変で、父親はなんにもしないダメ親父か、姑が過去にしてきた嫌がらせ、姉や兄のことが心配、などを幼い私に語って、共感を求めるのでした。

一方で、私が母親に話していたことは、友達の名前とか、面白かったこととか、部活の話とか色々ですが、すべて表面的なことです。

本当につらい話や、泣きそうなこと、学校の少し変なことなどは言わないようにしていました。

10才をすぎてからは、軽いいじめを受けることはありつつも、それは順番に回ってくるものだったので、あまり悩まずに、別グループの友達と仲良くなるなど、身軽にやっていました。

中学、高校は、友だちも多く、リア充と言われるような青春時代だったと思います。

中学、高校と、「毎日学校も楽しく通って、部活も頑張っている子ども」の部分だけを親には見せていました。

心配をかけたくなかったのです。

でも、とっても寂しかったです。

「親って嘘ついても絶対バレる」と子どもが言える家庭を目指したい

大学に入って、なんだかとっても素敵な子と仲良くなりました。

その子は、実家通いで、よく家族の夕食などに誘ってくれました。

絵に描いたように素敵な家族でした。

その子は「親って嘘ついても絶対バレるんだよね。」と言っていました。

衝撃でした。

親になんか、嘘つきまくってきたし、ばれたこともない。

「親はわかっていても、見て見ぬふりしてただけ」とも考えられるけど、

圧倒的な数の嘘をついていたから、親も何が本当で何が嘘かも分からなかった、わかろうともしなかった、っていうのが本当だと思っています。

親と仲良しの子って、本当に羨ましかったんですよね。

自分は、大きくなってから親と普通に話すことはできても、絶対的な信頼はできないです。

「自分は絶対自分の子どもに寂しい思いはさせたくない 」

そんな気持ちがとっても強くなりました。

だから、私は「小一の壁」なんて全然乗り越えたくないです。

子どもが家に帰ったら、「おかえり」と言ってあげたい。

学校や友達のこと、思い出したときにすぐに話を聞いてあげたい。

言わないなら言わないでいいから、「ママはいつも気にかけているよ、いつでも話してもいいんだよ」という気持ちが伝わって欲しい。

さいごに

もちろん、小学校以上のお子さんがいてフルタイムなどで働いているママが悪い、というつもりはありません。

子どもと、ちゃんとコミュニケーションをとることができていればいいんです。

毎日、子どもと向き合って子どもの話すことを聞く時間、ありますか?

子どもが、パパのことも大好きで、信頼できて、パパにいろんな話ができるっていうのも大事です。

兄弟がいるなら、上のお兄ちゃんお姉ちゃんが相談相手になってあげられる、ていうことも大事です。

家の中が、ある程度は整理整とんされていて、快適に生活できるかってことも大事です。

ママ自身が、自分の辛さを吐き出せる大人の相談相手がいることもすっごく重要です。

今の時代なら、共働きもだいぶ当たり前になってきて、いろんなサービスも充実しています。

自分だって、寂しくてお腹が空いて泣きそうになった夜の19:30に、もし馴染みのシッターさんがご飯を作りに来てくれていたら、寂しさは少し紛れたはずです。

掃除や洗濯の家事代行サービスなどの利用していたら、もっとお家もキレイで、お友達を家に呼ぶことができたはずです、友達に気を使うことももっと減っていたと思います。

小さい子どもの寂しさに気付いてあげる余裕を、多くの共働き親が持てればいいと思います。

私の場合は、条件的にフルタイムを続けると、この余裕がなくなるのが目に見えているので、在宅ワークを目指しています。

実際、いまも両親ともに仕事が忙しくなると、子どもの相手がちゃんとできていないなあ、と反省することがあります。

子どもを受け止める受け皿が、気付いたらなくなっていた!なんてことにならないように、時間と気持ちに余裕を作りたいものです。